近年、霞が関でも、デジタル化による業務効率化の事例が生まれつつあります。中でも先駆的な事例として注目されるのが、Salesforceが支援した農林水産省の『eMAFF』や、文部科学省の『EduSurvey』です。
ただし、霞が関のデジタル化にあたってはハードルも多く、課題も山積しています。官庁のシステム化を阻む要因と、それを克服するためのポイントとは何か。デジタル化はどのような波及効果をもたらし、国民の生活と官僚の働き方を変えていくのか。
前回に引き続き、千正康裕さんと今井早苗による対談をレポートします。
今井 実は私たちも、霞が関の業務をデジタルソリューションで効率化するお手伝いをさせていただいております。
その1つが、2021年4月に本格稼働した『農林水産省共通申請サービス(以下、eMAFF)』です。これは、農林水産省(以下、農水省)が扱う約3000の行政手続を、クラウド上でオンライン申請できるようにしたものです。ノーコード・ローコード開発で電子申請の仕組みをつくると同時に、農水省の職員の方が自らBPR(業務改革)を進め、一部の手続においては年間の書類を10分の1に減らして、審査業務にかかる時間を約50%削減することができました。
千正 eMAFFは、デジタル化で民間の利便性が向上し、役所のオペレーションが効率化されたことに加えて、もう1つの価値があると思います。それは、職員自ら開発をハンドリングすることによって、ユーザー体験の情報を集められるということです。小さな改善の必要性に気づいて、さらに改善を加えていく。そのサイクルを繰り返す中で、政策の種も出てくるわけですから理想的ですよね。
今井 公務員の皆さんは優秀で学習能力も高く、仕事を効率化する必要性も感じていらっしゃるのに、なぜ「デジタルツールを使って業務を効率化しよう」という機運が盛り上がらないのでしょうか。やはり、あまりに多忙で、余裕がないからですか。
千正 それは大きいと思います。eMAFFは理想的だと思いますが、そもそも各府省にはシステムをハンドリングできるデジタル人材がそんなにいない。「それなら、最初から外注して丸ごとやってもらった方が、自分たちの負荷が増えない」という力学が働きがちな面はあると思います。
今井 農水省さんにそれができたのは、チーム力のなせる業だと思います。トップがデジタル化の推進役となり、そこに食らいついていく若い人たちがいた。しかも、システムありきではなくBPR、業務改革から始まったことも大きいと思うのです。
若いメンバーの方々が、ホワイトボードに業務フローとチェックポイント、ボトルネックを書き出して、業務の見直しを行った。さらに、申請に必要な分厚いファイル数冊分の添付書類を写真に撮って、省内で共有した。さすがに「これはまずいよね」という認識が共有され、書類を減らそうという機運が高まったと聞いています。
千正 問題の見える化ですね。若い人たちが業務を見直す機会を与えられて、自分たちの手で変えていった。クリエイティブな仕事だし、成果も見えやすいですから、若い人たちが生き生きとして取り組んだのも分かります。
今井 文部科学省(以下、文科省)の事例もあります。
文科省は学校教育行政に必要な情報を把握するため、年間約250回のアンケート調査を行っています。Excelで作ったアンケートをメールに添付して配布・回収するのですが、都道府県教育委員会、市区町村教育委員会、学校とバケツリレー式で調査が行われるので、膨大な時間と負荷がかかっていました。
これを効率化するため、2022年4月、当社のツールをベースに『文部科学省WEB調査システム(通称EduSurvey)』が稼働しました。このように霞が関の業務効率化は進もうとしています。
千正 霞が関では、テレワークに対応したり、外部とやり取りしやすくするようなシステムの更新も始まっています。役所の外に散らばっている情報を収集・編さんし、意思決定をする上司や政治家、関係団体やメディアに説明して理解を求める。それが霞が関の仕事の本質なので、外部の人とフラットにコミュニケーションを取れるデジタル環境があれば、仕事の質は上がります。こういうことをリモートでもできるようにすれば、子育て中の人も含めて、理想的な働き方ができると思います。
今井 最近、民間でトレンドとなりつつあるのが、ノーコード、ローコードの開発です。この手法を使えば、専門知識がなくとも現場でシステムを開発し、スピーディーに改革を進めることができます。先程の農水省さんの例も内製化を進められた事例です。今はビジネスのスピードが速いので、何か月もかけてシステム開発を外注する昔ながらのやり方では、競争に勝てなくなっているわけです。
ホームセンターを展開する株式会社カインズという民間の事例ですが、コロナ禍でオンライン発注が増え、「商品を自宅に届けてほしい」「店舗に取りに行きたいが、感染防止のためロッカーで商品を受け取りたい」と、様々なニーズが出てきたわけです。そこで、IT担当の人が現場の人と相談しながら、わずか1、2週間でニーズにあったアプリを開発しました。
今、政府は「2022年度からの5年間でデジタル人材を230万人育てる」という目標を掲げていますが、デジタル人材を「IT部門で働く、情報処理技術者の資格保持者」という少々古い定義に基づいて試算しているように思います。
でも、民間はもっと先に進んでいて、業務を知る一般社員がデジタルの素養を身につける意味合いが強く、全員がデジタル人材となることが求められている。霞が関でも、デジタル化による効率化と改革の必要性に気づいた人は、デジタル人材と言えるのではないかと思います。
千正 実は、霞が関が抱える根本的な問題は「マーケティング・広報機能の喪失」にある、と僕は考えています。官僚主導といわれた時代には、省庁ごとに、業界団体や労働組合などの「中間組織」を経由して情報が入ってきた。中間組織が「こういう課題があるから解決してくれ」と同じような立場の人の意見を集約して届けてくれるので、中間組織の代表と調整して政策をつくっていけば想定外のことはあまり起こらなかったわけです。
ところが、中間組織の組織率が下がり、国民の多様化も進んで、従来のやり方では国民の声をカバーしきれなくなった。いわば中間組織を媒介とした、政策立案のためのマーケティング機能が失われたわけです。
一方、広報の面でも、昔は新聞やテレビの影響力が強かったので、府省の記者クラブに所属する新聞やテレビの担当記者向けに記者会見などで説明すれば、多くの国民に伝わった。ところが、今や新聞やテレビを見る人は減る一方で、しかも高齢者層が多い。記者クラブを経由した従来のやり方では、国民の一部にしか伝わらなくなっています。
つまり、現場に散らばった情報を集め、政策を国民の皆さんに伝えることが、昔よりも難しくなってきているのです。その結果、官僚主導がうまく機能しなくなり、従来と同じように中間組織の代表も入った有識者会議で、役所が調整して政策をつくっても、一般の国民から評判が芳しくないものができたりする。時には炎上して方針変更を余儀なくされるケースも出てきています。
霞が関が持っていたマーケティング・広報機能を回復できるかどうかが、大きな課題です。
今井 マーケティングと広報に関しては、民間では、ニーズの多様化に対応したパーソナライゼーションが当たり前となっています。
公共分野でも例えば、災害時にエリアごとに同じ情報を流すのではなく、「お宅には足の悪いお年寄りがいらっしゃるから、自宅の2階に避難してください」など、きめ細かい広報をすることも必要だと思います。こうしたことの一番のハードルとなるのは何だと思われますか。
千正 それは、役所に個人情報を預けることに対する抵抗感だと思います。
役所が個人情報を活用しようとすると、「こういうことを実現するために、個人情報を活用しようと考えています。よろしいですか?」と、世論に問うプロセスが必ず必要になる。個人情報の活用について、いかに理解を求めていくかが今後の課題です。
今井 今後、霞が関でもデジタル人材の育成が本格化すれば、霞が関の働き方やサービスは大きく変わると思います。それを私たちもお手伝いしたいですし、公共と民間の間を行き来する千正さんのような方が増えれば、デジタルトランスフォーメーション(DX)は一層加速するのではないかと思います。
千正 最近は「リボルビングドア」といって、官民を行き来する人が増え、国家公務員の中途採用も少しずつ増えています。
政策や行政サービスを担う人たちが力を発揮できるよう、霞が関でもデジタル化に向けた機運も高まっています。eMAFFのような実例をどんどん作り、それを他の分野にも広げていけるような流れができれば、と期待しています。
今井 今日は大変興味深いお話をありがとうございました。