人と地球に求められるソリューションを提供し続けるグループへの変革をめざす。
2024年から流通する新1万円札の新しい顔に、渋沢栄一が決まりました。近代日本資本主義の父と言われ、数百に及ぶ多種多様な企業の設立に関与した渋沢は、東洋紡株式会社(以下、東洋紡)の前身となる日本初の紡績会社「大阪紡績株式会社」にも深くかかわっています。現在の東洋紡にとって、創業以来の紡績事業は10%未満。フィルムや産業用樹脂が主力の化学メーカーとしてグローバルにビジネスを展開しています。それでも、企業理念として、渋沢の座右の銘であった「順理則裕」(じゅんりそくゆう)は残っています。
リーマンショックを経て大きな転換を図り、成長路線へと舵を切ったところに新型コロナウイルスのパンデミックがビジネスを直撃しました。そんな中、DXに向けて同社は大きな決断を下しました。売上高5,000億円を目指し、改革を図る同社は、今まさにSales CloudをDXの重要施策の1つとして営業改革をスタートさせようとしています。
東洋紡は、かつては日本を代表する紡績会社であり、六大紡績会社の筆頭として知られた名門企業です。しかし、1990年代後半ごろから低価格な海外製品の勢いに押され、業績は低迷。2000年代半ばまで、不採算事業圧縮など構造改革の時期が続きます。構造改革の結果、2006年ごろより利益体質を回復し、リーマンショック前には過去最高益となる営業利益304億円を計上するまでになりました。
常務執行役員として企画部門を統括し、カエルプロジェクト推進部も担当する竹内 郁夫氏は、「リーマンショックは確かに厳しく、四半期ベースでは営業赤字に陥った時期もありました。しかし、1990年代後半から2000年代前半の方が大変でしたね」と振り返ります。かつての苦しい時期を乗り越えた経験は、リーマンショックの際に生きました。事業別に損益分岐点管理による運営を徹底し、迅速に利益体質を回復。しかし、利益が出るようになった一方で、売上高は最盛期の85%程度に落ち込んだままでした。
「国内外の化学メーカーと比べると、ビジネスの成長という面でもの足りない数字です。中期計画が数次にわたり未達成になったことから、2017年には“なぜ成長できないのか”と、経営会議で大きな議論になりました。そして、“かつて赤字体質で苦しんでいた時期を乗り越えた成功体験が、逆に足かせになっている”のではないかという結論に達しました。問題は根深く、成長体質になるためには、単に戦略や制度を見直すだけでなく、企業文化から変えていかなければなりません。そして、カエルプロジェクトを立ち上げることになりました」(竹内氏)
赤字を出さないことを前提としながら収益を得るためには、短期的な目先の利益を追うことになりがちです。本来経営は、五年後、十年後、数十年後を展望し、その理想の姿から逆算(バックキャスト)した計画策定をすべきでしたが、それができていませんでした。また、営業現場では「良いものは売れる」、「お客様の言われるスペックを満たすことが全て」の意識が強く、「最終ユーザー、お客様に求められるソリューション」を提供しようとする意識、つまりマーケティング思考は希薄でした。
目指すのは、グループ売上高を現在の約3,500億円から5,000億円に引き上げること。すべてを見直すために、東洋紡の企業理念である「順理則裕」に立ち返りました。それまでは、「理にあった行動をすれば、自ずとゆたかになる」という、どちらかというと受け身の意味でとらえてきましたが、「自らが積極的に行動し、世の中をゆたかにし、自らも成長していく」と企業理念を再定義しなおしました。
組織体制も見直しを行いました。2020年4月より、マーケット領域ごとのセグメント営業体制へと移行したのです。これまでは、素材毎のプロダクトアウト型の視点により編成された組織でした。製品に詳しい営業担当者が、同じ事業部の技術開発者、工場と連携を密に取りながら、顧客に対して製品を売り込んでいました。対して、これからは、顧客に詳しい営業担当者が、東洋紡グループの持つ技術によって顧客のニーズを充たせるソリューションを提案するというアプローチに変えていきます。
これは、情報の流れが変わることも意味します。これまでは、営業情報は1つの事業部内にとどまっていても、問題にはなりませんでした。営業担当者は自分の扱う製品のことだけを知っていれば十分で、連携先も所属する事業部の技術開発部門だけで十分だったためです。これからの営業担当者は、「自分の担当する顧客の課題」を知り、彼らのニーズに基づいてソリューションを提案しなければなりません。そのためには、顧客ニーズをすべての事業部でスムーズかつスピーディに共有することが不可欠になります。
転機となったのは、2020年4月にデジタル戦略部を立ち上げた事もその一因となっています。先述のようにプロダクトアウト型の視点で営業活動を行ってきた事もあり、各顧客との接点の中で得られる情報は全て個人の中に管理され、会社全体の資産としては蓄積が出来ていませんでした。そうした中、この度の組織改編に伴いマーケットフォーカスでの営業スタイルに変革した事を受け、営業インフラとしての重要性に着目し、部としてDXに取り組む最初の一歩が、この営業改革プロジェクトを位置づける事としました。
結果、これは、「コスト」では無く、必要な「インフラ」としてSales Cloudに投資し、ビジネスのやり方を変えていかなければならないという結論に至りました。東洋紡でのDXは、当面の間、マーケティング&セールスとマテリアルズインフォマティクス、スマートファクトリーの3つの軸で推進しますが、マーケティング&セールスの中でもSalesCloud展開には3分の1以上のウェイトを置いて取り組まなければならないと考えました。
ただし、同時期に新型コロナウイルスが蔓延し、様々なキャッシュアウトに対してストップがかかり始めます。そのような状況の中ではありましたが、4月に開催された役員会では、“必要なものには投資を惜しまない”という経営の意思は強く、むしろ、3ヶ月、6ヶ月と遅らせることの方に危機感がありました。結果、推進に反対する役員はひとりもおらず、営業改革プロジェクトは予定どおり進行することになりました。
「新型コロナウイルスにより社会全体で大規模な実証実験がなされたと見ています。企業としては、いずれ実施しなければならない課題、例えばリモートワーク環境整備や地球温暖化ガス削減などの環境問題に前倒しで取り組んでいかないといけません。」(竹内氏)
現在は、既に稼働中の事業部のスタイルを参考にしながら、全社利用に耐えられるデータモデルを構築中。今後は、各事業部内の営業部門、研究開発及び生産技術部門へ段階的に導入する方針です。全社プラン決定後の初期稼働は2020年度中を予定しています。
営業改革プロジェクトでは、営業現場と研究開発及び生産技術部門をつなぎ、情報共有サイクルを高速に回す期待がかけられています。顧客ニーズを全社で共有するにあたり、「今すぐにはビジネス拡大につながらないけれど、営業先との会話で出てきたニーズ」を蓄積する場所としても機能させる方向です。営業担当者のKPIに、市場ニーズ情報の獲得を追加することで、モチベーションを保ちながら入力してもらう仕組みも構想しています。
「営業担当者の半数以上は、技術出身であり、開発営業スタイルです。お客様の求める製品特性や機能をヒアリングし、研究開発及び生産技術部門にフィードバックする仕事をしています。これまでは事業部内での個別の対話程度で済んでいましたが、これからは大きく変わり、情報連携のスピードが問われることになります。Sales Cloudはそのためのインフラとして機能させます」。
情報が蓄積されれば、Pardotを利用して顧客獲得からのビジネスプロセスを一気通貫で把握することや、情報分析のためのAI利用など、このインフラをベースに情報に付加価値を持たせるテクノロジーの導入も視野に入っています。
「今は海外複数拠点との情報共有のため、出社してから退社するまで、ずっと電話会議をしている人がいます。すべてがSales Cloudで完結することになれば、海外拠点の営業情報はそこにすべて入るようになりますから、そうした時間や通信コストは削減できるでしょうけれどね(笑)」(竹内氏)
ソリューション営業体制が根付けば、どのようなビジネスが可能になるのでしょう。竹内氏は、自動車関連事業での構想を例に挙げます。東洋紡には、衣料繊維における快適性の検証からスタートし、それを発展させた独自の快適性評価技術があります。これは、人の感じる不快感を数値化して示すことのできる技術で、空間全体の快適性の提案に利用することができます。
「自動車の中には、東洋紡の素材が数多く使われています。天井材、カーペット、カップホルダー、キャビンフィルターなどです。それぞれが別々の事業部で作られる素材で、これまでは各事業部の営業担当者が個別に提案活動をしていました。今後は、自動車メーカーに対して、“車室空間”として快適性評価技術の価値を含めて、トータルで提案できるような営業スタイルにしていきたいのです」(竹内氏)
東洋紡は、Sales Cloudを、2021年度内に全社の7~8割への導入を完了させたい考えです。成果を確認し、成功体験を重ねながら全社のインフラとして定着させるまでには、もう少し時間がかかる見込みです。5,000億円の売上を目指して企業文化とビジネスのやり方を変えるために、東洋紡は今まさに、実りある将来を構想しながら、この取り組みを進めています。